源氏物語から読み解く 本当は美しいだけではない桜のイメージ
はてなブログの今週のお題はお花見ですね。
日本に住んでいればとても身近に感じられる桜。
桜を愛でることは日本人らしい文化です。
先週末は天気に恵まれ、見事な桜並木を見ることができました。
わたしは「桜」といえば、かの名作「源氏物語」を読み返したくなります。
この作品には、「桜」が「特別美しい」という例えでしばしば登場するからです。
美男美女のラブストーリだけに留まらず、
「女性の生き方とは何か」
「幸せとは何か」
といった作者・紫式部の想いがたくさん詰まっているようにわたしには感じられます。
(それはまた別の記事でお話しますね)
しかし、わたしが感じる桜のイメージはただ美しいということだけではありません。
散ってゆく桜を見ていると、寂しいような悲しいような切ないような。
もしかしたら、紫式部が美しい女性を桜に例えて何かを訴えようとしていたからかもしれません。
そんな源氏物語の中で、桜にまつわるエピソードをいくつか紹介しようと思います。
【】で囲んだ部分は源氏物語の帖のタイトルです。
【若紫】光源氏、桜の妖精と出会う
主人公、光源氏が生涯最も愛したと言われる女性が紫の上(むらさきのうえ)です。
彼女との出会いは京都北山のお寺でした。季節は春、満開の桜の下で出会います。
春の人と、一生を共にしようと誓う
光源氏が京都北山に訪れたのは、体調が優れなかったので腕の良い僧侶に加持祈祷(早く治りますように)とお願いしに行ったからです。
その時源氏は自身の恋に苦しんでいました。気晴らしも兼ねて、北山という田舎に出掛けていったのでしょう。
そこで偶然見かけた少女が、後に妻となる紫の上です。
この時源氏は「なんと可愛らしい、桜の妖精なのだろうか」と思いました。
源氏17歳、紫の上は10歳であったと記されています。
「かごに捕まえておいたスズメを、犬が逃がしてしまったの」
といっておばあちゃんに泣きながら話す姿はとても可愛らしく、
(大人になったらさぞ美しい女性になるのだろう。そばでその成長を見たいものだ)
と源氏は想いを寄せていきます。
このシーンの背景には、満開の桜があります。
都の花盛りは過ぎてしまったけれど、山の桜は今が盛りであったという描写があるのです。
美しい桜の中で、まだあどけないがこれから美しくなっていくのが想像に難くない少女と出会ったわけです。
ここから、光源氏の中では「美しい紫の上=春・桜」というイメージが出来上がっていったのかもしれません。
「桜」が「大切な人との出会い」を連想させるエピソードです。
【野分】源氏の息子、夕霧がうっかり垣間見た樺桜の君
源氏が大人になり、正妻である葵の上との間に生まれた息子・夕霧(ゆうぎり)が登場します。
野分(のわき)とは台風のことです。ということは季節は秋ですね。
源氏や妻たちが住んでいるお屋敷に夕霧が訪れたときのことです。
初めて見た美しい人に憧れを抱く
風が強く吹き、庭に見事に咲いている秋の草花が散ってしまうのが心配で、紫の上は軒先まで出てきていました。
当時ある程度身分の高い女性は、姿が見られるのはよろしくないとされていました。
ですから夕霧は紫の上の姿を見たことはありません。
しかし、ちょうど源氏のお屋敷に到着した時に庭を眺める紫の上を見てしまったのです。
そこで夕霧はこう思います。
(なんと美しい方!まるで春の霞の中に咲き誇る樺桜のようだ…!こんなに美しいから、父上は紫の上が人の目に触れないように用心していたのか…)
この帖の季節は秋ですが、ここでも「桜」が登場します。
夕霧はこの後もしばらく紫の上の美しさが忘れられません。
気高く清らかで、しかし物腰は柔らかく優しい雰囲気の紫の上を、夕霧は「樺桜の君」と呼んでいます。
このシーンでの「桜」は、清らかで優しくて美しい、でも到底手が届くはずもない「憧れの人」といったところでしょう。
紫の上は28歳、源氏の息子・夕霧は15歳の時のお話です。
【幻】手の届かない場所へ行ってしまった春の御殿の人
時系列はさらに進んでいき、源氏の孫に当たる匂宮(におうのみや)が登場します。
源氏51歳、匂宮6歳です。
この帖は源氏の最愛の人・紫の上が天国に旅立った後のお話です。
主がいなくなった春の庭で悲しみにふける
紫の上は源氏のお屋敷の中の春の御殿に住んでいました。しかしもうその部屋の主はいません。
庭には紫の上が生涯大切に見守っていた紅梅や桜が咲き誇り、匂宮が遊んでいます。
源氏と紫の上との間に子供はいません。
しかし、他の妻との間の子供や孫も、わが子のように可愛がっていた紫の上。
ここで登場する匂宮も、紫の上にたいそう可愛がられていました。
まだ6歳の匂宮が言います。
「桜が散ってしまわないように、風を遮る几帳(きちょう)を立てたらどうだろうか。」
そんな様子を源氏は可愛らしいと思い微笑んでしまいます。
「おばあちゃまに言われたんだ。わたしがいなくなったら宮が代わりに桜を見守ってくださいって。」
そんな紫の上からの遺言をけなげに守る匂宮に、源氏は涙がこぼれます。
源氏はこの後、出家に向けての準備を始めます。
出家するということは浮世を捨てること。
それは都での栄誉を捨てて、華やかな暮らしとはお別れすることです。
わたしにはこの桜が、源氏に出家の決心をさせたのではないかと思います。
長年自分に仕えてくれた家臣たちや、他の妻たち、子供や孫たちと別れるのは、なかなか踏ん切りがつかずに
いましたが、
「人生で一番愛した人(紫の上)はもういないし、彼女が愛したこの春の庭も守ってくれる人(匂宮)がいる。
子供達もそれぞれ帝に仕えて何不自由もない生活をしている。もうわたしには何も思い残すことはないだろう。」
そう考えたのではないでしょうか。
晩年の源氏の様子から読み取る「桜」は、「別れ」と「決断」の象徴です。
愛し愛された紫の上と儚い桜
生涯を通じて愛し合った源氏と紫の上は、「桜」の下で出会い「桜」の元で別れました。
源氏物語は他にもたくさんの「桜」についての描写がありますが、私が好きなシーンはこの3つです。
「もののあはれ」とは、言葉ではなんとも表現できない風情や儚さなど、美しさの理念です。
(現代の言葉で近いものといえば、「エモい」が近いのかもしれません…)
一年に一度、たったの一週間だけ見事に咲く桜を愛でるという文化は、
日本人が「もののあはれ」という美的感情を知らず知らずのうちに持っているからではないでしょうか。
桜の季節に出会った最愛の人
桜の下で「出会い」、生涯を共にした源氏と紫の上。
桜が出会いのイメージであるのは、平安時代から現代まで変わらないことなのかもしれません。
新しい人と出会い、これからの人生がどんな風に過ぎていくのか。
そういったことを桜は連想させてくれます。
気高く清らかな憧れの人
誰もその姿を見たことがない紫の上。
台風の悪ふざけなのか、偶然目にしてしまった息子・夕霧にとっての「憧れの人」。
紫の上が永遠の眠りについたとき、夕霧は若き日に見た紫の上の姿をもう一度だけ見たいと几帳(部屋を仕切るカーテンのようなものです)を上げます。
(やはりあの時と変わらず美しい、いや、さらに美しい。若き日の憧れであった樺桜の君…)
別れゆくときも桜の季節
紫の上が旅立った季節は秋であったとされています。
しかし落胆する源氏が、やっと現実を受け入れて本当の「別れ」を決心したのは桜が咲く季節のことでした。
紫の上をなくして半年ほど、生きた心地がしない日々を過ごしていたことになりますね。
しかし庭先で必死に桜を守ろうとする孫を見て「決心」がついたようです。
.花びら舞い散る🌸..最高の休日😌..また1年後、わたしも成長して見にくるからね🌸..#春 #桜 #新しい1年
お花見をすると、これからの1年にワクワクしてくるけれど、反対に少し寂しいような気もします。
ですがキレイだなと思うことに変わりはなくて、今年のお花見はお天気にも恵まれました。
たまにはちょっと文学的な視点で桜を愛でるのもまた粋です。
また1年、たくさんの「出会い」と「別れ」と「決断」が待っていることでしょう。
それを繰り返しながらまた成長していきたいものです。